参考文献
 「梅屋敷のおはなし」 蒲田図書館
 「史料・梅屋敷」 壇山門  蒲田図書館
 「聖跡蒲田梅屋敷」白須浅一著 蒲田図書館 

目次
1.梅屋敷のご紹介 2.蒲田と梅 3.蒲田の梅の伝来
4.蒲田梅屋敷 5.ダイヤモンド事件 6.梅屋敷での送別
7.幕末の梅屋敷 8.将軍家と梅屋敷  9.梅屋敷の荒廃

 梅屋敷のご紹介

京浜急行本線「梅屋敷」駅の改札を東側に出ると京浜第一国道(国道15号線)に出ます。
信号を右に折れて5分ほど歩くと公園があります。
京浜急行の線路と第一京浜国道の間に挟まれた小さな公園です。
これが「梅屋敷公園」です。

公園に代表される「梅屋敷」はとても古い歴史を持っているのです。
この梅屋敷の歴史を一つ一つご紹介していきたいと思います。


 蒲田と梅

平安時代に「武州荏原郡蒲田郷」の名が見られ、「梅木村」とも言われていました。
もともとこの地は北に穏やかな丘を背負い、南は海に面した温暖な平地で、梅の栽培に適していました。
村の家々では田畑の間、或いは宅地の周囲を利用して数十株の梅の木を植えて果実を採取し、生計の助けとしていました。

全村あたかも梅の木で覆われたような景観で「梅木村」の名前もここから付いたものだそうです。
2月半ば、梅の季節になると全村の梅が開花し、見渡す限りあたかも白雪に覆われたようになり、
その香りは村の外までも漂ったといわれています。
ウグイスの鳴き声や小鳥のさえずりが加わって風情豊かな光景が広がったのです。

梅は加賀性の実梅で、花は白一色、果実は厚く核は小さく品質がきわめて良好でした。
街道を往来する旅人や江戸の人々が愛用した「梅びしお」「梅干し」はここの産だったのです。

やがて天明の頃になると観梅の旅客の往来が頻繁になり城南の名勝として喧伝されるようになりました。

「花も優れて清白の一種なり。もと之れ梅実の為に植ゑし野梅なれど、
花の盛んなる頃は、さながら雪など木に降りかかりたる如くにして、
目を悦ばしむるに足れば、いつとなく其の聞えありて、
安永天明の頃よりは江戸より来り見るもの多し」 武蔵風土記


 蒲田の梅の伝来

蒲田の梅の伝来についてはこんな物語があります。

天慶6年、蒲田の豪族、蒲田杵太郎貞武は平良文の娘「梅姫」と結婚しました。
その時、良文は娘の結婚の記念として京都から梅を取り寄せて贈ろうとして、親戚の村岡五郎忠雅にその旨を申し送りました。
その頃、京都では逝去した菅原道真公の霊を慰めようと諸国から梅の名木を集めていました。
忠雅はそれらの梅を分けて貰うよう頼みましたが許されませんでした。
そこで、左大臣藤原仲平に斡旋を依頼しました。

仲平はかねてから杵太郎の勇名を聞き及んでいたので、
菅原道真公に献納すべき梅樹数株を「梅姫」に分け与えることを許したのです。
これが上方の梅が関東に移し植えられた始めであると伝えられています。

この話は実におよそ1千年前のことでありました。

(武蔵風土記による)


 蒲田梅屋敷

蒲田が梅の名所であることは広重の名画によって広く知られることとなりました。
遠い昔からこの地が梅の産地として知られ、従って梅園も数多くあったことは想像に難くありません。
数ある梅園の中で、もっとも勇名だったのが「久三郎の梅屋敷」でした。

明治元年以来、明治天皇をはじめ、英照皇太后、照憲皇太后、大正天皇などの行幸の光栄に浴したのも「久三郎の梅屋敷」でした。
蒲田における山本家は文永の頃、大森谷戸の山本忠左衛門の弟、久三郎がこの地に分家したのが始まりでした。
この頃、「和中散」(寝冷えや水あたりによく効く薬。旅人の役に立った)を売っていた薬舗がありました。

この薬舗の先祖は元禄年間に大森に来て貴船神社の付近で和中散を三カ所に分けて商売を営んでいたのでした。
この中の一つを山本忠左衛門が薬の株とともに家屋敷全部およそ3000坪を買い受けたのでした。
これが「蒲田梅屋敷」なのです。

忠左衛門の弟、久三郎がこの地に分家すると、庭園に梅樹数百株を植え、種々の花木を栽植し、
庭園を造営し、園内に亭を設けて人々の観覧に提供したのでした。

山本家の商売は、最初は単なる茶屋であって一つの卓に15,6種類の漬け物類を小皿に並べて、
客の休み処に供していたのでした。


蒲田梅屋敷は品川の宿を出て南へ1里半という所にあり、また東海道の江戸の入り口にあたっていた。
この好位置に所在することもあり、立ち寄る人々が多かった。
幕末になると、海外との交渉ごとが複雑になり、
各藩の志士たちが風情を味わうことに名を借り、ここに集まって密謀秘策を凝らすものも多かった。

従って茶屋は日増しに繁盛していった。
当時の客は当然のことながら草履履きなど質素な人たちが多かったのです。
だからここの茶漬けに香の物の手軽さと淡泊な風味が一般の嗜好にマッチしたのでしょう。
ますます人気を集めたのでした。

客の方と言えばただ食べるばかりでは飽き足らなくなりちょっと一杯、という欲求が起こります。
一方、店の方でも客の求めに応じ酒肴を出すようになりました。
更に街道の向こう側に漬け物置き場を設け、住宅を建てます。
この頃茶屋は、門前には馬30頭、人力車が100台も客待ちするほど大繁盛するようになりました。
明治の初年のことでありました。

しかし、この繁盛も永遠に続くことはありませんでした。
明治31年に起きたある事件をきっかけに衰退の一途を辿り、
ついには丹精込めた名園で、
しかも行幸や行啓の光栄を頂いた由緒正しい庭園も人手に渡ることになってしまうのです。


 ダイヤモンド事件

明治20年、梅屋敷の梅林は全盛時代にありました。
週末には人力車100台、馬2,30頭も客待ちをするという盛況ぶりでした。
その功をなしたのは妻のおさよでした。
美貌の上、如才ない接待をするし、娘達もみな愛嬌者でした。

庭園は広いし、度々の臨幸や行啓、高貴なお方のお成りもあり大官達の来園もある。
来園者は各階級、各職業の人までに広がっていきます。

ある日、伏見宮貞愛親王殿下が乗馬姿で突然ご来臨遊ばされた。
折しも雨上がりで少々水溜まりあった。
殿下は手に持った鞭をその水溜まりに落としてしまった。
これを見た娘のおそのは恐縮しながらも駆けつけ、鞭を拾い上げ自分の袂で鞭の汚れを拭き清め殿下に捧げた。
殿下はその行為を喜ばれ、後日お召物一重を賜ったという。

評判が評判を呼び来園者はますます多くなっていたのでした。
主人、久三郎もまたお客の接待に留意して家の全盛を守ったのです。
しかし、繁栄の幸福に酔っていた山本家に思わぬ不幸が忍び寄ってきたのです。



手洗い場の側に鞍馬石の小さな手水鉢が高さ1尺5寸ほどの台石の上に載せてあった。
ある日、来日中の外国人がそれを見て大いに驚いた様子で客を待っていた娘達(おその、おのぶ)に言った。
「あそこに大きなダイヤモンドがあります。あなた見てごらんなさい。」
と言って件の外国人は台石を指さした。

「これダイヤモンドです。貴女は知りませんか? たくさんのお金になる。日本の人そういうこと知らない。
私の国でも大変珍しい、人はみんな喜びます。おお! 勿体ない!」
と言った。
娘達は驚いて父久三郎に知らせた。
久三郎は下駄を履くのももどかしく驚き且つ怪しみながらその場所へ駆けつけた。
そしてその外国人に聞いた。
本当ですか?
すると外国人は
「これダイヤモンド! ダイヤモンド! 日本珍しい。これ高い!」と、説明した。

久三郎はじめ、みな誰もダイヤモンドを見たことがない。
世の中にダイヤモンドというものがあるそうだ、と言うことくらいしか知らなかった。
感心しながら外国人の話を聞いた。
「このダイヤモンドの価格はどのくらいでしょう?」
「さよう、60万両の価値はありま〜す。オオ! たくさんのお金になる」
外国人は笑いながら久三郎の肩をポンとたたいた。
「あなたお金持ちあります。ダイヤモンド盗む人あります。早く家の中へ入れるよろし」

そこで久三郎は急いでその台石を取り出し、何回も台石を洗い清め乾かして絹に包み綿を巻き、
大工を呼んで寸法を測り上等の桐箱を作らせこれを入れて床の間に置いた
この突発的な事件は意外な反響を呼んで、山本一家は興奮の渦の中にあった。
そして、評判が評判を呼び、新聞にまで出たと言うことである。

久三郎は人を頼んで桐箱に箱書としてもらい、更に檜の板に「この家で奇石を発見した由来」を書き、
「希望の方にはどなたでも縦覧させます」と筆太に書いて門前へ建てた。

久三郎は思う、
「このダイヤモンドは国の宝である。そして、私は実に60万両の資産家になったのだ。
もう50銭や1円のはした金に目をくれて客を扱う身分ではない。
私は富豪になったのだ」

奇石参観を望むのもがあれば誰彼の差別なく丁重なもてなしをし、酒肴を以て厚く待遇しては鼻高々だった。
この頃の60万両は実に大したものである。
久三郎が有頂天になったのも無理はない。



久三郎はある時考えた。
「この国宝を他国の人などに売り飛ばしては国の損失だ。
これは宮内省へ献上するのが最良の方法だ。さすればお下金も莫大なものになるだろう」と。
久三郎は早速その手続きをした。

しかし、宮内省では「御入費多端の折柄ゆえ御採納になり難い」旨を係りの口上で聞き、やむなく引き返してきた。
要するに「そういったものを受け取る余裕がないと断られたのだ。

それならば他へ売ろうといろいろ人を介し斡旋を頼んで売り込みの努力を始めた。
このことを耳にした野心家達は好機逃すべからずと割り込んできて甘言を以て運動引き受けを申し出た。
久三郎は彼らの甘い言葉を真に受けて食事のご馳走はもちろん、運動費も惜しまず出すという人の良さ。

この間、費用はどんどん嵩んでくるし、本業の客扱いがおろそかになってきたのです。
あまり長い間売り先が見つからないので、そのうちに誰彼となく
「あれはダイヤモンドではないそうだ」などという噂も立ちはじめた。

それを気にした久三郎は鑑定をしてもらおうと考えた。
東京帝国大学なら鑑定も確かだろうと帝大の理科大学へ鑑定を依頼したのだった。
大学では仔細にこれを鑑定した。
「この石は細かい水晶の屑ともいうべきものが含まれ、ごく僅かのルビーがその間に見えるだけである。
ダイヤモンドという貴重な宝石ではない」
と断定し更に付け加えていった。

「水晶でも大きなものだったら細工のしようもあるが、こんな微細のものでは何の役にも立たない」
久三郎が重ねてその価値を聞いた。
「まぁ、このままにしておいてせいぜい百円か二百円になるかも知れない」
予想外の答えに久三郎は開いた口がふさがらないほど驚いた。
彼は悄然として大学の門を出た。

実に彼が得意の絶頂から失望の深淵に投げ込まれた瞬間だった。
久三郎はシャクにさわってしかたがなかった。
例の外国人を捜し出し、例の石のことを問いつめた。
「私は日本のダイヤモンドとは言いました。世界のダイヤモンドとは言っていません」
とシラを切られてしまった。

久三郎は泣くに泣けず寝込んでしまった。
石も桐の箱もろとも投げ出してしまい、門前の柱も抜き去られてしまうという有様になった。
久三郎はこの時60歳、宝石の一件で思わぬ危難に精神上に大きな衝撃を受けたらしく、
その後は精神に異常をきたし、そのうち大病にかかりついにこの世を去ったのでした。

妻のさよも59歳で久三郎のあとを追い、負債も大きくのしかかり、その上働く人も少なくなってしまった。
それでも長女のそのはどうにか家業を続けていたのでした。

ある人から「この梅屋敷を宮内省へお買いあげ願ったらどうだろう」との案が出た。
明治28年頃、おそのは何かとお世話をしてくれていた野村治郎吉と同道し、
宮内省へ梅屋敷お買いあげの願いを申し出た。

省内のお役人には多分の馴染みがあったのでおそのはこれを頼りに懇願したのであった。
しかし、宮内省は「今、一大戦争が終わったばかりで、予算が捻出できない」
との理由で断られてしまった。

そうこうしているうちにおそのも死に、おのぶも他へ嫁ぎ、おてやは16歳で亡くなり、
家運は日一日と衰退の一途を辿ったのでした。

終いには家具道具を店頭で競売しなければならない羽目に陥ってしまった。
故意か否かは知るよしもないが彼の外国人の一言が因をなして、
古い由緒をもつ梅屋敷も他人の手に渡ることになったのでした。
誠に気の毒なことであった。

借財といっても、その頃の2,3千円程度であったが、
高利の金である上、莫大な手数料を取られ瞬く間に巨額な借金になったのでした。


 梅屋敷での送別

梅屋敷は品川の宿を出て僅かに一里半の距離にあった。
しかも名高い梅の名所なので人が集まるのはもちろんであるが、
ここに花を愛し、風情を楽しむより他に他の目的のための集まりもあった。
それは、送別の人々の会合であった。

昔は中国、南海、西海などの諸藩士の帰国を送るとき、
まず高輪泉岳寺脇の料亭「万安」で送別の宴を張り、
互いに酒杯を交わして道中の安全を祈り、惜別の情を交換した。

こうして尽きぬ名残を惜しみつつ5人10人と連れだって歓談しながら、
鮫洲に着くと今度は「川崎屋」に入り込みここでもまたまた歓談する。
親友ともなるとここでもまだ別れ得ないで更に蒲田の梅屋敷までも見送るのであった。

ここで3回目の別れの杯が交わされるのである。
まず、国許への伝言とか、江戸に残る者の身の上の注意とかが繰り返され、
更に天下の志士たちの秘密の相談に余念のない場面もあったのである。

なかには、感極まって涙を浮かべる者もあり真の惜別の情に燃える光景であった。
故に「万安・品川」或いは「鮫洲の川崎屋」「梅屋敷」と来るまでには、
途中でだいたい話は尽きたようだけれども、なんだか別れがたい気分が残っていたのかも知れない。

梅屋敷の門を出て、南へ行く者、北へ行く者、どちらもここが最後のお別れである。
互いに見送り、見送って、
「道中ご油断なく」
「函嶺と大井川はとりわけご注意めされよ」
「大丈夫でござる」
と言って太刀の柄に手を乗せて微笑する。

「貴公その意気は誠に結構。但し、ご奉公が大事でござるからなぁ」
「貴公も江戸屋敷お勤めもあと半年だからご油断なく」
「じゃ、左様なら、お互いお達者で…」
と言ったような会話が交わされたのである。

名残が尽きたわけではないが行く先には六郷の渡し場があって、
多少面倒だからここでお別れと決めたものらしい。


 幕末の梅屋敷

名勝としての梅屋敷は有名で誰でも知っている事実である。
それは梅の名所であるというものであった。

しかし、この地が史蹟として、特に幕末から明治維新の初期に国史上の重要な舞台になったことについては知る人は少ない。
ある意味では梅屋敷は明治維新の気運を醸し出した源泉地であるとも言える。
幕末において内外ともに物情騒然たる時に際し、天下の志士たちはこの地に集ったのである。

その理由は
1.位置が都合のよい場所にあった。
梅屋敷は東海道の江戸と神奈川とのちょうど中間に位置している。
品川から1里半。遠からず近からずの便利のよい場所にあった。

2.環境が内密の会合に都合がよかった。
天下に名だたる梅の名所であるから花を愛でるに名を借りれば疑惑の目を避けることができた。
それは梅の時期に限らず四季を通じて言えることであった、。

3.幕府の目をくらましやすかった。
志士たちに幕府の隠密の目が光っていたのは当然だが、
この地は松並木の続く街道沿いにあったので見通しがきき、
いざというときは逃げ道として羽田、池上などを選び得る環境にあった。

4.内外の諸情勢の動き。
内には尊皇攘夷の議論が台頭し、既に一部では実行に移されていた。
外部にあっては黒船の来航があり上下あげて不安にかられる情勢にあった。

こうした関係で志士たちの会合は頻繁に行われ、人数も多かった。

これらの主な人々には、高杉晋作をはじめ幕末諸藩の藩士であったが、
その後明治政府の大官となった三条実美、岩倉具視、沢三位、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、大隈重信の諸公らもいた。


 将軍家と梅屋敷

蒲田梅屋敷が明治天皇をはじめて奉り高貴のお方の行幸行啓の光栄に浴したが、
更に将軍家との関係も見逃せない史実です。

将軍家との関係がいつの頃からはじまったかは定かでないが、
鷹狩り鳥見などの際にしばしば旅宿、休憩所にあてられたのであった。

文政3年2月3日、将軍家斉の世子公家慶が大森蒲田で遊猟の際に此処で休憩をした。
更に文久3年には将軍家茂はその上洛に際し同年2月13日此処の地において休憩したのである。
これは1,2の例であるがこれによってもこの地が将軍家との交渉が浅くなかったことが容易に知られるのであった。

付近の住民は
「祖父の話によると時々将軍家の鷹狩りがこの付近でよく行われましたが、
そんな時は祖父自身もお手伝いを命ぜられて鳥を追い立てる役を勤めたそうです」
と語っていた。

現在では鳥の飛び立つ場所さえ想像もできないけれど
この頃のこの地はまだまだ自然が豊富で田園の中に農家が点在するという環境だったから
鷹狩り等も行われたものと見える。


 梅屋敷の荒廃

梅屋敷が山本家の手を離れて高田氏の所有に移った当時は、
高田氏の金力にまかせての手入れと氏の真心によって、
庭園は綺麗に手入れが行き届き、久三郎所有の時よりもいっそうの美しさと奥ゆかしさが加わった。

高田氏は希望するものがあれば入園を許したが入園の際には必ず草履を履かせた。
こうした努力が実って園内は塵ひとつなく神々しくも感じられたのであった。

氏は道路の向かい側にも別宅のあった土地を買い求め、堂々たる邸宅を営もうとした。
しかし、まさに引っ越しをしようとするとき不幸にも病没してしまったのである。
そこで遺族は新宅に引き移り梅屋敷は第百銀行(当時)の所有に帰したのである。

梅屋敷の荒廃はここから始まったのだった。

銀行の手に移ってからは庭園の手入れは殆ど絶え、僅かに留守番が住んでいたにすぎなくなった。
更に、所有者が京浜電気会社に移った後は、
掃除はもちろん建物の修理も行われずただ腐朽するにまかせるばかりとなってしまった。

加えて大正12年の関東大震災では被災者が続々と庭園の建物内に入り込み、
住み込んだのである。

御座所内の襖などは勝手に引き外して仕切りに使い、一間に数家族が同居する有様。
殆ど無秩序の状態になってしまった。

茶屋母屋にも現在で言えばホームレスのような人たちが寝泊まりするようになり、乱雑そのものになってしまった。
結果、手入れはおろか格好のよい植木や、記念すべき碑石の類はどんどん運び出されてしまったのである。

庭園は背の高さほどの雑草が生い茂り人の頭がやっとみえるという状況。
所々に大きな穴がみえる、なんだろうと思ったら枝振りのよい梅の木を掘り返し持ち去った後の穴であった。

かくしてこのまま放置したら歴史ある聖跡も跡形もなくなってしまう。
梅屋敷は存亡の危機に直面した。
の悲惨な状況を憂う人たちが発起し、保存会の誕生に至るのである。


 保存会の誕生

古来の名園であり、
明治維新後は明治天皇をはじめ尊き方々の行幸行啓に無上の光栄を浴したこの庭園も
ただ荒れに荒れて廃滅の一途を辿っていった。
このまま放置したら尊い聖跡が跡形もなくなる危機に面した。

大友新次氏を発起人とする御遺跡保存会が生まれ壊滅の一歩手前という危ういときに辛うじてこれを救い得たのである。
この時この土地は京浜電鉄社の所有で今まさに売りに出されているところだった。

保存会のメンバーは分売を防ぐのを急務として早速その方面から着手した。
当時の蒲田町長を訪れ保存の必要を論じ助力を誓願した。
町議の集まる席で「町としてはできる限りの努力と寄付金で応援する」との決議を得た。

さらに東京府知事を訪れ梅屋敷の現状を訴えた。
知事は「係の者を差し向け調査した上でなくては何ともしがたい」と答えた。

梅屋敷に府から調査が入った。
その結果は、
「大切に保存し破壊しないようにせられたい」とのことで、
とりあえず史蹟として仮指定され立て札を下げ渡されたのであった。

府から補助金を交付されるには会を設立しなくては困難であるから保存会の目的をもって会を創立したらどうかと助言があった。
その結果として保存会の役員は次の通りに決まった。

会長 大島健一 副会長 宮城栄三郎 理事長 野村次郎吉
常務理事 西山長次郎 新田五郎 大友新次 森孫太郎

理事会を開き蒲田地方の寄付金募集について協議し、
その方法として各町議会議員、区長、その他有志に各区の受け持ちを決め戸別勧誘をはじめることを決議した。
軍人会、青年会に委嘱して寄付金及び庭園の修理に協力してもらうこととした。

京浜電鉄会社との交渉が始まった。
会社側は、表通り坪32円(300坪)、裏通りは同じく40円(200坪)との主張であった。
保存会はとりあえず表通りの300坪だけを買い受け手付け金1000円を払うとの議案を理事会に提出した。

その後、会社側と保存会側で協議の末「784坪全て買い受け、代金総額18032円」となった。
そのほか拡張敷地購入や園内整備などの費用を入れると総額20万円あまりの予算となった(事業目論見予算書

(未完)


HOME