山恋うる日々のつぶやき 2001年1月のつぶやき

このコーナーはテッちゃんが日々想う山に関する日記を綴ります。
日記という以上、毎日書くつもりですが抜ける日もあるかもしれません。ご容赦下さい。
皆さんの割り込みメッセージも歓迎します。


2001年1月31日 水曜日 午後 4:59:02

高尾山ならアプローチもいいし、雪も積もっているだろうと昨日行ってみた。
高速道路の脇や一般道路の歩道にたくさんの雪が残っていた。
道路の凍結が恐いので時間を遅らせて家を出た。
稲荷山コースの登山口は絶対と言っていいほど雪があり、凍っている。
この日も軽アイゼンを付けなければ滑りやすい状況になっていた。
ところが、カーブを曲がると雪が消え土が出ていた。
裏切られた気持ちになって更に進むとだんだんと雪が出てきてその先は真っ白な山道になった。
2時間弱で山頂に。
さすがは高尾山、この雪にもかかわらず大勢の登山者で賑わっていた。
一面雪の山頂で「六角家」の冷凍ラーメンを食べ、富士山を観、日溜まりの休憩を堪能した。

 ↑ 50p積もった山頂。  ↑ 山頂からの富士山。左は大室山。

ふと、ICI石井スポーツがバーゲン中だったことを思い出し、ついでに八王子に支店があるのも思い出した。
この日はこのままケーブルカーで降りて、八王子店に寄った。
特に購買欲をそそるものはなかったが新製品の半永久的に使える電球と最小最軽量が売り物のヘッドランプを妻が買ってくれた。
買ってくれたというのは、私の今日の誕生日のプレゼントという意味だったのだ。


2001年1月27日 土曜日 午後 5:08:06

う〜〜寒い(>_<)
雪はやまないどころかビル風に煽られて吹雪いている。
こんな日は早じまいして一杯やりながらDVDの映画でも観よっと。


2001年1月26日 金曜日 午後 4:40:29

昨日は生活習慣病(成人病)の定期検診だった。
毎年この時期受けるようになって、かれこれ10年近くなるだろうか。
その間、胃に異常が見つかって要精密検査、などといわれ胃カメラを飲んだり、脂肪肝と診断され摂生を言い渡されたりしたことがあった。
肝機能の指針であるγ−GTPの値は正常値を遙かに上回っていたし、高脂血症の診断は慢性的であった。
この二つの症状は「判定3=要観察」が毎年続いていた。
それがこの数年数値が下がり「判定=1」になっているのだ。
考えられるのは山歩きが功を奏しているということだ。
登山に関してはとりたてて健康のためという意識はなかったが結果的に体脂肪を減らしてくれていたのだ。
いいぞ、いいぞ! この調子で昨日の健康診断もいい数値が出てくれるといいのだが…。
だが、先週の相次ぐ新年会や、よせばいいのに毎晩欠かさない晩酌がどんな結果をもたらすのやら、それが心配だ。


2001年1月21日 日曜日 午後 4:48:30

自転車がキコキコ音がするようになった。
油切れかな? と思いつつそのまま乗っていたがどうも気になる。
サドルもボルトが外れてガタガタになっているし、錆も目につく。
自転車屋に持ち込んで修理を依頼した。
後輪のタイヤもすり減っていたので交換を頼み、代車を借りて帰ってきた。
その日の午後、自転車屋から電話があった。
「修理が全部終わって試運転をしたら重大な欠陥が見つかりました」というのだ。
サドルを支える支柱(?)が根本からポッキリ折れていたのだ。
キコキコの音はそのせいだったのだ。
溶接して繋がなければこのままでは危険だ。
自転車屋が防犯登録を調べたらこの自転車、買ったのは平成2年だという。
かれこれ10年以上も乗っていたことになる。
その間、幾度となくタイヤの交換、ブレーキのワイヤー、鍵の取り替えなどなど修理に修理を重ねて今日まで乗り継いできたのだ。
10年乗れば元を取ったかな? と考え思い切って新車を買うことにした。
ズラッと並んだ新車の中からひとつを選んで色違いを注文した。
荷が入って完成するのが昨日の土曜日なので出来たら電話をくれることになった。
昼間のうちに電話がないので雪が降ってきたから気を利かせて明日に延ばしたのかな? と思い、夕方からの某ネットの新年会に出かけた。
雪は意外にも降り積もり路面は白く化粧していた。
夜、自宅に戻ると階段脇に真新しい自転車が置いてある。色も形も注文したものと同じだ。
それも雪をたっぷり被って…。
(自転車屋のヤロー、新車をこんなところに置いていきやがって!)
急いで屋根のあるところに移動して雪を払った。
雪をすっかり払うとボディのシルバーが街灯に光った。新車の輝きだ。
だが変だな? ネームが入っていないし、頼んだはずの変速機が付いていない。
ひょっとしてこれは誰かが置いていったものか?
自転車を眺めながら暫く腕組みをして突っ立ていた。
そこに1階の居酒屋の女将が出てきた。
「この自転車、誰の?」
「私のよ、今日買ったばかりなの」
「え? あ、そうなの? 雪を払ってあげたから…^^;」

太陽が出て、路面の雪が消えた今日の午後。
「自転車が出来ました! 昨日はあんな天気だったものですから、今日の方がいいと思いまして」
と自転車屋の元気のいい電話がかかってきた。

 今日の一枚「雪の品川駅ホーム」


2001年1月17日 水曜日 午後 7:13:20

寒い日が続いている。都心で氷点下が何日も続くというのも珍しい。
外へ出ると打ち水したあとや、水たまりが凍っている。
そこで困るのが山へ行くときの車だ。
高速道路はともかく、早朝の麓の道が凍結しているのは間違いない。
アイスバーンや雪道を走るのになれていないからつい出かけるのが億劫になってしまう。

おとといの晩、なんの脈絡もなく、ふと「イワシが食いたい」と思った。
数年前、業界の旅行でイワシ料理を食べたことがある。これがとっても美味かったのでそれを思い出したのだ。
たしか千葉の海岸に近いところだったはずだ。
山かイワシか、イワシか山か。
思案の末、イワシに軍配が上がった。「イワシ調理」→「温泉」ということになった。
見たことのある海岸へ出た。海岸にはサーファーが何組もいた。風は思ったより暖かく寒くはなかった。
海岸ふちに並んでいる海の家は殆ど閉まっている。
目的の店へ入るとご主人が「昨日、電話してくれた人ですね」と言って日当たりのいい座敷へ案内してくれた。
といっても海の家だから料亭のように立派なものではない。
店の人はご主人だけ。客は私たちだけ。料理はイワシのコース。


刺身、天麩羅、塩焼き、煮物、酢で絞めたもの、つみれ、全てイワシだ。
お新香だけがイワシではない(当たり前か…)
「食べたいものを食べに、車を飛ばして来るなんてなんと贅沢なことをしているんだろう」
「貧乏人は貧乏人らしくしていなくっちゃね」
そんな会話をしながら、骨を残して全部平らげた。
湯冷めをしそうなので温泉はパスし、新しくできた幕張の巨大スーパーを見学して帰ってきた。
それにしてもイワシ料理は美味かったなぁ(^o^)


2001年1月14日 日曜日 午後 1:51:46

過去の山行記録を辿ってみたら1995年6月20日から始まっていた。
この時の高尾山ハイキングが山にハマったきっかけだった。
その年の8月、日の出山に登っている。
暑い日だったが頂上は数組の登山者がいて思い思いにくつろいでいた。
四阿の向こうに中型の犬が昼寝をしていた。
時々目を開けて登山者の様子を窺うような仕草をしていた。
他の登山者達は一組減り、二組いなくなって山頂は私たちだけになった。
犬はむっくりと起きあがって私たち方に歩いてきた。
親しそうに寄ってきたので弁当のイカゲソをあげると美味しそうに食べた。
時間になったので下山にとりかかった。
犬があとからついてくる。
東雲山荘の犬かな? と思ったがそこは無人小屋だ。
はじめは私達に前後して歩いていた犬は急な下りにかかると先回りして振り返る。
犬と我々の距離が離れると振り向いて待っている。
その距離は一定で、つかず離れずの等間隔を保っていた。
「この犬は私たちを案内しているんだ!」そう気がついたのは10分ほど経った頃だった。
平坦な道でも時々こちらを振り返って近づくのを待っている。
木の根が張った急な坂道になると安全な場所に着くまでジッと我々を見守っている。
やがて御岳山の売店街に着いた。
一言お礼を言って頭を撫でてあげようと思ったが、いつの間にか案内犬は人混みに姿を消してしまった。
その後、何回も日の出山を訪れたがその犬に巡り会うことはなかった。
頂上では何組もの登山者がいたにもかかわらずなぜ私たちを案内してくれたんだろう?
いったいあの犬はどこの犬なんだろう?
そんなことを思い出しながら古い山行記録をめくっている。

 今いずこ? 日の出山の案内犬


2001年1月13日 土曜日 午後 6:45:42

先日、初めて「ロト6」なるものを買ってみた。
43個の数字から6個の数字を当てるといういうものだ。
6個の数字を見事当てると1等賞金1億円。該当者がいないと次週へ持ち越される。
何週間か前に持ち越された賞金4億円を当てた人がいたという。
1口200円で5口買った。

4億円、いや1億円でもいい、当たったらどうしようかと妻と相談した。
取り敢えず家を買おう。残ったお金は山の資金にとっておく。
百名山どころか千名山だって行けるぞ。
しかし、絶対に守らなければならないことがある。
何かというと「当たったことは口が裂けても人に言ってはいけない」
だがどうしても嬉しさが顔に出てしまう。それは仕方のないことだ。
「あの人最近ニコニコしているわね」と言われても絶対に人に言ってはいけない。
毎週木曜日が抽選だから明くる日の朝刊には結果が掲載される。
固い約束を交わして新聞を開いた。
その結果はなんと!

年末ジャンボ宝くじの1等当選確率が東京地域で16万分の1だそうだ。
「ロト6」にあっては600万分の1とも700万分の1とも言われている。
これじゃサハラ砂漠でコンタクトレンズを探すより難しい。
やっぱりこういったものは「当たらない」と言うことで「交通安全のお守り」にしておいた方がいいのかもしれない。


2001年1月12日 金曜日 午後 6:21:29

運転免許証の更新に行ってきた。
以前に比べると流れがよくなったせいか正味1時間で新しい免許証が発行された。
3年前の更新の時、てっきり5年のゴールド免許を貰えると思っていたらとっくに忘れていた駐車違反があったためにまた3年の更新になってしまった。
今回はめでたく事故も違反もなく、初めてゴールド免許なるものをもらった。
これで5年間は確保できた。
市街地で車を使っていると違反切符を切られる機会が多いと思う。
何年か前はスルスルと5mくらい走ったところでシートベルト着用違反で減点されたことがあった。
あるところで駐車していたら民家の人に通報されて駐車違反になってしまったこともある。
この数年、山へ行くときに車を使う機会が多くなったが林道脇などは厳密にいえば駐車違反じゃないのだろうか?
それなのにとがめられないのは大変嬉しいことだ。
山から降りてきたらレッカーで持って行かれた、なんてことがあったら悲惨だし…。
土地が広大な分、住民や管轄省庁なども心が広いのだろう。
更新といえば、今年は色々な切り替えが集中している年だ。
仕事の営業免許もそろそろだし、あとなんだっけ?
ま、いろいろあるんです。
年も改まったことだし、自分自身の人生も何らかの切り替えをしたいのだけれど…。


2001年1月11日 木曜日 午後 4:23:08

去年、師走も押し迫った頃、ひょっこり尋ねてきた後輩がいた。
私が20代の頃、近所の顔見知りでよく一緒に遊んだり飲んだりした男だった。
今は世帯を持ち子供達も成長し、一家で神奈川の某団地に住んでいるという。
話は景気の話題になって仕事がヒマでしようがないと愚痴をこぼしていた。
彼は親方と自分との二人だけの町工場に30年以上勤務してる。
「俺は日給月給だから仕事がないと喰っていかれないんだ。この暮れにきて仕事が途切れて困った」と、嘆く。
「収入が減ると真っ先に減らされるのが俺の小遣いだ。たまには仕事の帰りに安酒屋でイッパイと思うがそれも思うようにいかなくなってきた。その次に切りつめるのが食費。こんな不景気がいつまで続くのだろうか…」
たしかに製造業に限らず不景気の波は相変わらず高く、その高波に溺れるものがどんなに多いことか。
「それで、今日は年末調整の日で会社から還付金をもらってきたんだ。僅かな金額だけど少しは足しになる…」
彼の、波浪に揉まれながらも愛する家庭を何とか守っていこうとする純真な姿に同情と共に感動した。
「折り入ってテッちゃんに頼みがあるんだけど…」といいながらポケットに手を入れた。
(なんだ? 借金の申し入れか?)と、一瞬身構えた。
彼は小さな紙片を私に見せた。それは源泉徴収の計算書だった。
計算書といっても「源泉徴収還付金。金、○○○○円」と簡単なメモ書きだった。
「このメモがどうした?」
「この金額を書き直してもらいたいんだ」
「えー? 書き直してどうするんだい?」
「少しだけど俺の小遣いにするんだ。去年は自分で書き直して女房に渡したら、
『これはあなたの字でしょう』
『違うよ、俺がそんなことする訳ないじゃないか』と言ったら女房は
『じゃ、会社に電話してみるわ』
と言ってダイヤルを回し始めたんだ『ち、ち、ちょっと待ってくれ』と、あえなくバレちゃった…」
私はそのやりとりに思わず笑ってしまったが、笑えない悲哀が胸を突いた。
彼は同じ大きさのメモ用紙まで用意してあって、私はそこに○万円少ない数字を書いてあげた。
彼は笑顔になってそれをポケットに入れたが今度はこっちが心配になった。
「元のメモはちゃんと破いて捨てろよ」「封筒のお金はちゃんと抜いとけよ…」
大丈夫。有り難う。助かった。と言って彼は暮れなずむ師走の街へ姿を消した。
新世紀を迎えた今年。彼が小遣いに苦労しなくていい景気が戻ってくるのだろうか。


2001年1月5日 金曜日 午後 6:52:01

元旦に丹沢から帰って職場のポストを見に行った。
新聞やら郵便物やらがいっぱいになってしまうので取り出しておかなくてはならないのだ。
案の定、大きな封筒や分厚い新聞の元旦号などで溢れていた。
おや? 年賀状がない!
毎年、こちらから出す年賀状は約700枚。もちろん殆どが仕事関係なのだが個人的なものも少数含まれている。
山関係の人に出すには印刷された仕事の賀状では味気ないだろうと今年は「筆まめ」で作ってみた。
それはともかく、元旦に届いているはずの年賀状がないのだ。
頂く賀状は毎年およそ200枚くらい。
それが見当たらない。
2日は配達が休みのようで何も入っていなかった。
3日は移転先不明として戻ってきたものや返事の賀状が数枚あっただけ。
4日。ポストを覗くと厚みを帯びたコンビニ袋が入っている。
中を見ると元旦に届いていたはずの年賀状だった。
袋の中の年賀状は上下逆さだったり、裏表になっていたり、砂がついていたり、小さな枯れ葉まで混ざっていた。
一言で言うとかなり乱れた状態で袋に突っ込んであったのだ。
一枚一枚丁寧に差出人を確認しながら整理したが頭の中は「いったい誰の仕業だろう?」ということだった。
私はこの一件を「2001年・年賀状事件」と名付け、真相究明に乗り出した。
…といってもケーサツに届けるほどのものではない。早い話がどうしようもないのだ。
そして今朝、その謎が判明した。
店に入ろうとすると、隣のちょっと古いお嬢さんが出てきた。
新年の挨拶のあと、くだんのお嬢さんが切り出した。
「お宅の年賀状のことだけど…」
「Mさんでしたか、袋に入れて頂いたのは…」と、とぼけて聞いた。
「元旦はねぇ、風が強かったでしよう? ポストを開けたとたんブワ〜〜って年賀状が全部吹っ飛んじゃったのよ。あっちの方までバラバラに飛んじゃって慌てて拾い集めたのよ」と、三軒先の家を指さして言った。
「輪ゴムをしていなかったんですかね?」
「ゴムが弱かったのね、きっと…。全部拾ったつもりだから大丈夫だと思うわ」
実はこのポスト、隣と共同で使っていたために隣が新聞を出すときに吹き飛ばされたらしい。
だから気を遣ってコンビニ袋に入れて保管し、私が来る頃ポストに入れておいたのだ。
私は隣のお嬢様に丁重にお礼を言ったのはいうまでもない。
事件が迷宮入りにならずにすんでよかった。よかった。


2001年1月4日 木曜日 午後 4:36:47

3日は第77回箱根駅伝の復路。
毎年この復路は応援に出かけている。
といっても特別贔屓にしている大学があるわけではないのだが家からすぐ先が国道15号線だからだ。
鶴見の中継所までは駒大と順大が併走して手に汗握る接戦を見せた。
たすきを渡したのを見届けて、家を出る。
新聞販売店に寄って旗をもらう。
国道には既に大勢の人が通過を待っていた。
いつもここに来ると知っている顔と何人か出会う。
それらの人には新年の挨拶をこの路上で済ませてしまうことにしている。
やがてトップグループの走者がやってきた。
中継所前でスパートして抜いたはずの走者がまたまた2番手と併走している。
「がんばれー!」と沿道から声援が送られる。拍手が湧いた。
やや遅れて3番手が通り過ぎた。
暫く間が空いて4番手、5番手と懸命に走り去っていく。
「がんばれー! 俺がついてるぞー!」なんて言うヤツがいた。
(お前がついていてどうなるんだ?)と、思ったが本人はいたって真剣なのだ。
最後に「これで全ての走者が終わりました。声援有り難うございました」といって役員車が走っていった。
沿道の人達はあっという間にいなくなり、元の国道に戻っていた。
帰りしな、旗を見ると小さな字で何か書いてある。
隅っこのマークをハガキに張って送ると何か当たるらしい。
早速ハガキを送ったのは言うまでもない…^^;


2001年1月2日 木曜日 午後 2:09:09

新世紀の幕開けだ!
世紀越えの山は丹沢木ノ又大日「木ノ又小屋」だった。
小屋では丹沢Webのmodokiさんが出迎えてくれた。
ビールを片手に常連さん達の仲間に入れてもらって懇談する。
暖かなストーブを囲んで聞く山の話は新鮮で勉強になる。
外に出ると秦野方面の夜景が美しく輝いている。
年越しそばを頂いて早めの就寝。
6時に起きて初日の出を待った。
水平線にかかる雲が太陽を遮ってなかなか顔を出さない。
しかし、何条もの太陽光線が雲の隙間から海を照らし一種幻想的な光景が広がった。
背後からバンザイの声が響いた。

朝食を美味しく頂いて出発の準備。
塔の岳で休憩のあと、鍋割山へ向かう。
風が強く冷たいが上空は雲一つない青空。
行き交う人々も口々に「おめでとう!」
なんと素晴らしい元旦なんだ。
世紀越えのこの一瞬に山に居合わせるこの幸せ。
来てよかった。やっぱり山はいい!


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